(評・舞台)Bunkamura「青い種子は太陽のなかにある」 猥雑さの上、重ねる清純2015年8月27日16時30分
寺山修司のみずみずしい初期戯曲「青い種子は太陽のなかにある」を蜷川幸雄が演出した。中越司の美術による冒頭の怪奇な場面には圧倒された。
地獄の火炎、シュールな木人間、ナイフの刺さった巨大な耳、4人の盲人。奇想の画家H・ボスやP・ブリューゲルの図像がちりばめられた活人画が、動き出す。寺山演劇のフリークスも跳梁(ちょうりょう)する。猥雑(わいざつ)で不気味な荒野に、青い麦のような若者の清純な恋が蒔(ま)かれる。
スラムで出会った工員の賢治(亀梨和也)と、ウェートレスの弓子(高畑充希)が恋に落ちる。アパート建設中に転落死した作業員を、役所は壁に塗りこめる。目撃した賢治が、告発しようとする。体制、悪の謂(い)いである壁を、2人の愛と真実でどう突き崩すかが主題だ。荒野は終末の時代状況の反映か。
寺山の指示は音楽劇。松任谷正隆が作曲したブルース、バラード、説経節が官能をそそり、ブレヒト調に物語る。
高畑が演技も歌唱もピュアに輝く。「日がもしも沈まないなら」など、恋にふるえる切なさ、初々しさをのびやかに歌唱する。手足の隅々まで演技が繊細に行き渡る。亀梨は若者の屈折感が濃い。世俗に妥協する場面で声の出ない絶叫を放ち、挫折も生々しく表現した。
花菜は「あたしはマリー」で退廃と扇情をシャウトする。マルシアの「子守唄」は名品だ。戸川昌子が貫禄たっぷり。しわがれ声で説経節を語り歌い、寺山の抱える土俗の情念が出た。
最後、死んだ弓子に幾筋もの光が射(さ)す。天使が上下する天国へのはしごに見える。初期寺山の叙情は、蜷川流神話へと純化された。他に六平直政、大石継太、渡辺真起子、山谷初男、鳥山昌克、つまみ枝豆らが出演。(山本健一・演劇評論家)
30日まで、東京・渋谷のオーチャードホール。
(評・舞台)Bunkamura「青い種子は太陽のなかにある」
不堪之上的清純
寺山修司稚嫩的初期戲曲「青い種子は太陽のなかにある」由蜷川幸雄執導上演。奇特的開場場景由美術指導中越司設計,帶來了壓倒性的沖擊。
地獄的火焰、超現實的木頭人、被刀插著的巨型耳朵和四個盲人。鋪陳著想象力豐富的畫家希羅尼穆斯·波希和彼得·勃魯蓋爾肖像的活人畫(註:經過打扮的真人在布景裏保持不動,看上去就像畫裏的人一樣),動了起來。寺山演劇中的怪物們開始東奔西跑。年輕人之間清純的愛戀像青色的麥子一樣就播種於這片混亂不堪又瘆人的荒野中。
在貧民窟邂逅的工人賢治(龜梨和也)和女服務員弓子(高畑充希)愛上了彼此。政府機關把建造公寓時摔死的勞工封進了墻壁裏。目睹了這一切的賢治想去告發這一事件。整個故事的主題就是兩個人的愛和事件的真相如何突破「體制」這一罪惡的壁壘。荒野就反應了那個時代結束時的狀況吧。
寺山的要求是做成音樂劇。由松任谷正隆作曲的藍調、敘事曲和說經節帶出了性的,將故事用布萊希特陌生化的方式(註:利用藝術手法將司空見慣的事物用未知異樣的方式表現出來,暴露事物的矛盾性質,使人們認識改變現實的可能性)表現出來。
高畑的演技和歌聲都非常純凈,能在演唱「如果太陽不下山」等歌曲時輕松地表現出戀愛中顫抖的悲傷與青澀,纖細的演技延展到身體的每個角落。而龜梨身上則有著年輕人濃重的別扭感,向世俗妥協時發不出聲音的呼喊和灰心喪氣也表現地非常逼真。
花菜的「我是瑪麗」吼出了頹廢和挑逗。マルシア的「子守歌」也是名作。戶川昌子相當地有氣派。嘶啞的嗓音念唱出的說經節,完美地呈現了寺山獨有的情感。
最後,幾束燈光照射向已經死去的弓子,出現了能讓天使通往天國的梯子。早期寺山的抒情故事完成了向著蜷川流神話的純化轉變。其他出演者還有六平直政、大石継太、渡辺真起子、山谷初男、鳥山昌克、つまみ枝豆等。(山本健一·演劇評論家)
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